看護師マガジン
2019.5.12
看護師の皆さんは「看護の日」と聞くとどのようなことを思い浮かべますか?
日々慌ただしく働いていると、特に意識することなく毎年なんとなくこの日が過ぎていってしまっている方も多いのではないでしょうか。
今年は令和になって初めての「看護の日」です。
なんとナイチンゲールが生誕して199年だそう。
来年は生誕200年ということで、さらに看護の日が注目されるかもしれません。
日本看護協会では、毎年「忘れられない看護エピソード」を募集しています。
私もこれまでの看護師経験の中でさまざまなエピソードがあるので、少し振り返りながら書いてみたいと思います。
皆さんも、ぜひ看護師を目指した頃のことを思い出してみてくださいね。
私は、今年で14年目になる看護師です。
といっても現在は臨床から離れ、「ナースときどき女子」の編集部で働いています。
臨床を離れた理由はいろいろあるのですが、病棟勤務をしていて仕事と子育ての両立が大変だったことが一番に挙げられます。
あとは他の仕事もしてみたかったこと、少し「看護」から離れてみる時間がほしかったことでしょうか。
そんな私が看護師になりたいと思うようになったのは中学生の時です。
小学生の頃に母が入院したことがありました。その数ヶ月間は病院に面会に行くのが当たり前の生活になっていたので、病院がわりと身近にありました。
いつも看護師さんが私に優しく話しかけてくれたことをよくおぼえています。
そして、子供心になんとなく看護師に憧れを抱くようになりました。
中学生になって進路の話になった時にはごく自然に「看護師になろう」と思いました。
その後高校に進学し、文系が得意でしたが看護学校に進むために苦手な理系に進みました。
でも、生物だけは好きですごく頑張った記憶があります。
そして晴れて看護学校に合格し、看護師への第一歩が始まりました。
看護学校に入学してからこれまで、さまざまな出来事がありました。
特に印象に残っていることを年代別に書いていきたいと思います。
看護学生時代といえば、やはり思い出すのは実習のことです。
とにかく必死でした。看護学生は1人の患者さんを受け持つので、それぞれの患者さんにとてもお世話になったし今でもよくおぼえています。
なかでも特に印象に残っているのは成人看護学実習で外科病棟に行った時のことです。
私が受け持たせていただいたのは中国人の方でした。
その方は簡単な日本語しかわからなかったので、時には英単語やジェスチャーなども用いてコミュニケーションをとっていました。
疾患や看護について学ぶことが一番大切だと思っていましたが、コミュニケーションがとれなければ患者さんの様子や状態を聞き出すこともできません。
同じ病棟に実習に行っている仲間たちのように患者さんとの距離を縮められずにいました。
そこで私は中国語で何か伝えることができたらと思い、この言葉をおぼえて伝えてみました。
「血圧を測ります」
発音が合っているのかもわからずたどたどしい中国語でしたが、患者さんはとても喜んでくれました。
それからも相変わらず会話は片言の日本語と英単語とジェスチャーで大変でしたが、笑顔をたくさん見せてくれるようになりました。
戴帽式前の実習では、ナースキャップではなく三角巾のようなものをかぶらなくてはいけませんでした。
ナースキャップをかぶっている先輩たちがキラキラして見えて、早く私たちもかぶりたいと思っていました。
その当時、すでにナースキャップが廃止されている病院も多く、ナースキャップ姿はなんだか看護学生の特権のように思えました。
実際、私も社会人になってからはナースキャップを身につけたことがありません。そう思うとあの時期は特別だったんだなと思います。
戴帽式では、ろうそくの灯りの中でナイチンゲール誓詞を暗唱しました。
その光景が今でもはっきりと目に浮かびます。
母も見に来てくれて、これから看護師になるんだという決意を新たにし、これからますます頑張らなくてはと思わせてくれる大切な時間でした。
新卒で私が配属されたのは第一希望の救命病棟でした。救命センターの中にICU、HCU、後方病棟があり、私は後方病棟で勤務することになります。
まさに命の現場。じっくり1人の患者さんと向き合ってきた看護学生時代の実習とは違い、重症者を何人もみなければいけないので毎日頭がパンクしそうでした。
同じチームにちょっと怖い先輩がいました。
どことなく新人は嫌いオーラが漂っていて話しかけるのに勇気がいりましたが、同じチームということもあり関わらないわけにはいきません。
ある日その先輩がフォローについてくれたとき、受け持っている患者さんの病態を理解していなかった私はものすごく怒られました。
「そんなんじゃ患者さんのところに行かせられない!」と言われ朝からしょんぼり。
その日はなんとか業務をこなし、帰り際に「明日も同じ部屋にするからしっかり勉強してきて」と言われました。
これ以上怒らせるわけにはいかない、と疲れ切った体にムチを打って必死に勉強しました。
そして翌日。恐る恐る先輩のところへ行き、今日受け持つ患者さんの観察すべきポイントをひとつひとつ言っていきました。
表情を変えないのでビクビクしていましたが、口を開いた先輩は「やればできるじゃない」と私を初めて褒めてくれたのです!びっくりしたと同時にとても嬉しかったです。
当時の私はこの出来事が看護師としての自信につながりました。
周りだけじゃなく自分にも厳しい先輩は、患者さんにもズバッと物申すけどすべて患者さんを思ってのこと。
だんだんとそういった一面に気付くことができました。
その後、5年目になった私の結婚式にも出席していただき、今でもたまに連絡を取り合っています。
あの時怒られて必死で勉強したこと、そしてそれを評価してもらえたこと。
看護師として進みだした当時の私にはものすごく大きな出来事でした。
救命病棟に勤務して5年目、すっかりリーダー業務などもこなせるようになっていた私。
結婚が決まり、6年目を前に退職することになります。
5年間の救命病棟時代を振り返り、プライマリーとして受け持った患者さんはたくさんいましたが、一番印象に残っているのは脊髄損傷の患者さんです。
不慮の事故により突然首から下が動かなくなってしまい、本人はそのことをなかなか受容できずにいました。
しかし、徐々に現状を受け入れ、リハビリにも少しずつ取り組むようになっていきます。
初めて車椅子に乗っている姿を見た時は、私もご家族と一緒に喜びました。
そして、数ヶ月の入院ののちにリハビリ病院に転院することが決まります。その頃には患者さんは積極的にリハビリをするようになっていました。
脊髄損傷なので、もちろん動かなくなった体が動くようになるわけではありません。
それでも転院前には、口をつかって文字を書くことができるまでになっていました。
ある時その患者さんに呼ばれ、渡されたのは1枚の紙。
そこには
「患者に優しく自分に厳しい〇〇さん、ありがとう」と書かれていました。
そんな風に思っていてくれたなんて知らなかったので驚いたのと同時に本当に嬉しかったです。今でも大切な宝物です。
自己紹介でも書いたように、現在は「ナースときどき女子」の編集部で働いています。
病院で勤務していた頃とはまるっきり違う世界ですが毎日楽しく働いています。
直接患者さんと関わることはありませんが、看護師に向けて情報を発信するためにさまざまな企画を考えています。
なので、これまで以上に看護について考えているかもしれません。
看護や医療系のニュースに目を向けたり最近の医療業界について調べたりと、世界が広がったような気がしています。
今回エピソードを書くにあたり、看護師としてのこれまでを振り返ることができました。
いろいろなことがあったなと改めて感じています。
そして、なんだかんだ言っても「看護」が好きなんだと思います。臨床を離れても、こうして看護師に関係する仕事をしている私。
いつかまた臨床に…と漠然と思ってはいますが、今はここで自分にできることをしっかりやっていきたいと思っています。
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